パフ・ダディがバッド・ボーイを立ち上げ東西抗争へ

パフ・ダディは、アメリカのエンターテーメント界で、最も成功した人物と言われたことがある人物だ。

今までのブラック・ミュージック界の歴史においても、彼ほど成功した人物はいなかった。

バッド・ボーイ・エンターテーメントのレーベル経営者としてや、プロデューサーとして、時にはラッパーとして、全ての分野で成功することが出来たヒップホップ界の怪物だ。

ただ、順風満帆に成功した訳ではない。

パーティーでの死亡者事故を乗り越え、バッド・ボーイを設立したものの、デス・ロウ・レコードの責任者「シュグナイト」と「2PAC」が引き起こした東西抗争に巻き込まれるなど、困難に遭遇してきたのだ。

このページでは、そんなパフダ・ディの生涯を見てみよう。

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生い立ち

本名は、ショーン・コムズという。愛称として「パフ・ダディ」や「パフ」、「パフィー」、「P・D」、「P・ディディー」、ショーン・“パフィ”・コムズなど、様々な呼び方をされている。

生まれは、ニューヨーク州マンハッタンのハーレム地区。赤ちゃんの時に父親が殺害されるという悲劇に合い、それをきっかけに、ワシントン州のマウント・ヴァーノンに移り住み、母親に育てられた。

彼が本格的にヒップホップに携わるようになったのは、ハワード大学に通っていた頃。パーティーの主催やダンサーで名を上げていた彼は、同じマウント・ヴァーノン出身の当時の大物ラッパー「Heavy D」の紹介もあって、アップタウン・レコードで働くようになった。

雑用などをこなしていたパフ・ダディは、アップタウン・レコードの創設者兼社長であるアンドレ・ハレルから気に入られ、プロデュースなどの大きな仕事を任せられるようになった。そして、大学を中退し、仕事に専念して行った。

パフ・ダディは「ダディー・ハウス」というパーティーを主催し、マンハッタンのミッドタウンのクラブ「レッド・ゾーン」で繰り広げていた。そのパーティは成功をつかみ、また、その他にも彼の仕事ぶりは評判となり、パフ・ダディの存在は知れ渡るようになる。

しかし、そんな中、主催したイベントで事故が起こってしまう。

イベントでの死者を出した事故

1991年12月、パフ・ダディとヘヴィー・Dらは、ニューヨーク市立大学のハーレム・キャンパスで、有名人も参加したバスケット・ボールのイベントを開催した。

その会場の入り口のには、勾配のある階段があり、そこで客が足を踏み外し、将棋倒しとなってしまった。これは大きな事故となり、9人が死亡し、重症の客も多かった。

この事故はマスコミに取り上げられ、パフ・ダディ、ヘヴィー・Dらは、アンドレ・ハレルが雇った弁護団と共に、記者会見が行われた。弁護団は、私立大学の警備などにも問題があると指摘し、パフ・ダディらは重責を免れた。

だが、ニューヨークポストは、「パフダディと言う名の愚か者」と非難した。また、見知らぬ人間に脅迫されたりもし、自殺を考えたこともあったと言う。

パフ・ダディは心に深く傷を負った訳だが、彼はそれを乗り越えていった。

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メアリー・J・ブライジをプロデュースし、革命を起こす。

その後、パフ・ダディのプロデューサーとしての実力を発揮した。

1992年にパフ・ダディがプロデュースした、メアリー・J・ブライジのファースト・アルバム「Whats The 411」が成功し、ヒップホップ界に革命をもたらしたのだ。

当時はニュー・ジャック・スウィングの出現により、既にヒップホップとR&Bは融合されていたのが、ゴスペル風の明るい曲が多かった。だが、メアリー・J・ブライジは、ヒップホップ・ビートに、ブルースのような暗くて力強いボーカルを乗せた。

これが当時は革命的であり、クイーン・オブ・ヒップホップ・ソウルと呼ばれるようになり、以降、90年代はこのスタイルが広まって行ったのである。

What's the 411 / Mary J. Blige

3曲目に収録されている曲「Real Love」は、後にサンプリングされまくった。

日本でも、Sugar Soul feat.KenjiやMay J. feat. DJ KAORI, Diggy-MOの「Garden」がサンプリングされていることで有名だ。

パフ・ダディ解雇

パフ・ダディの存在は大きくなり、アップタウン・レコード内において、また、ヒップホップ界においても頭角を表していたのだが、1993年7月、アンドレ・ハレルはパフ・ダディを解雇することとなる。

アンドレ・ハレルいわく、「ジャングルに2頭のライオンはいらない」とのこと。

ただ、そのお陰で、さらなる成功を治めることとなる。

解雇されたパフ・ダディは、自信のレーベル「Bad Boy Entertainment(バット・ボーイ・エンターテーメント)」を立ち上げた。

そして、第一弾として、クレイグ・マックの「Funk The World」をリリースした。

Funk the World / Craig MacK

「Flava In Ya Ear」のリミックスには、ノートリアス・B.I.G.がゲスト参加している。

もともと、パフ・ダディによって見出されたノートリアス・B.I.G.は、アップタウンを辞めてバッド・ボーイと契約を交わした。

そして、ノートリアス・B.I.G.のファーストアルバム「Ready To Die」をリリースした。

Ready To Die / The Notorious B.I.G.

バッドボーイからリリースされたノートリアス・B.I.G.のデビューアルバム。ヒップホップにおいて、このアルバムは東海岸を盛り上げることとなった重要すぎるアルバムだ。

パフ・ダディがプロデュースし、DJプレミアや、イージー・モー・ビー、ロード・フィネスなどもアルバム製作に関わっている。

「Ready To Die」をリリースし、軌道に乗っていたのだが、後に、2PACから非道なディスを受け、東西抗争と呼ばれるにまで発展していくこととなる。

そして、最終的には、ノートリアス・BIGを失うこととなる。

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ノートリアス・B.I.G.と東西抗争

1990年代半ば、ヒップホップ界は、東のデス・ロウレ・コードと、西のバッド・ボーイ・エンターテイメントという二つのレーベルとの間に亀裂が入り、対立していた・・・

 

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