ヒップホップ・ミュージックは、アーティストそれぞれの個性により細分化され、オールド・スクール系やニュー・スクール系、パーティー系、ニュー・ジャック・スウィング系など色々ある。

ギャングスタ・ラップは、LAのアイス・Tがもたらし、それを浸透させたのがN.W.Aだ。

N.W.Aの出現から、徐々にヒップホップ界は東と西で分かれ、後の2PACとビギーの騒動へと発展していく。

N.W.Aのグループ構成

N.W.Aは、東側のコンプトン出身で、イージー・E 、ドクター・ドレ、アイス・キューブ、MCレン、DJイエラの5人からなるグループだ。

彼らは世間から、「世界で最も危険なグループ」と言われ、なんと、FBIにマークされていたほど危険だった!まるで映画の世界にでてくるギャング組織のようだ。

1980年代中頃、ドクター・ドレとDJイエラは、クラブDJに没頭し、名前も売れており、レコードをリリースする実力があった。

そこに、ドラッグを売りさばいていた、ギャング育ちのイージー・Eがつるむようになる。

そして、ドクター・ドレ家の近所に住んでいた、幼いころからラップを書いていおり、地元のグループで活動していたアイス・キューブが加わり、後にイージー・E家の近所に住んでいた友達、ラップで成功を夢見るMCレンが加わり、N.W.Aは結成された。

他にもN.W.Aの仲間にはD.O.C等がいる。彼はアイス・キューブと共にN.W.Aのライムを書いていた人物であり、彼らの多くの作品に参加している。

N.W.A and the Posse / N.W.A

プリオリティ・レコードからリリースしたN.W.Aのファースト・アルバム。

現在では、N.W.Aといえばドクター・ドレが確立した音であるGーFUNKが、彼らの音楽としてイメージが強いが、1枚目のアルバムはエレクトロな曲が入っている。

4曲目は全くHIP・HOPを感じさせないし、5曲目はアフリカバンバータの”プラネットロック”を思わせるテクノ・ヒップホップだ。彼らにもこんな時代があったのだ。

レーベル設立

イージー・Eは、実家のガレージをスタジオに改装し、ルースレス(非常)・レコードというレーベルを設立した。レーベル設立にかかる資本金は、ドラックを売りさばいたお金だと言われている。

ルースレス・レコードからの第一弾は、イージー・Eのソロだった。

面白いことに、イージー・Eは、ドクター・ドレのようにDJをやってきた訳でもないし、アイス・キューブのように、ライムを書いてきた訳でもない。つまり、ヒップホップのスキルが乏しいのである。

そんな彼が、ここまで成功を収めることができたのは、彼のキャラクターが受けたのだろう。

ドクター・ドレ等が曲を作り、アイス・キューブ等がライムを書き、イージー・Eの高い声と人間性が、人々に受けたのだろう。

Eazy-Duz-It [Bonus EP] / Eazy-E

イージー・Eのファースト・ソロ・アルバム。200万枚以上の売り上げを達成する。

N.W.Aのファースト・アルバムと同様、パーティ系の音楽で、ドクター・ドレがプロデュースしている貴重なアルバムだ。

1989年、N.W.Aのギャングスタ・ラップは爆発した。とんでもないアルバムをリリースする。

“Fuck The Polic”のリリースによりFBIにマークされ、ギャングスタ・ラップとして、ヒップホップの歴史に名を刻んだ。

Straight Outta Compton / N.W.A

オールドスクールっぽい音がまだ残っており、P-FUNKの音に近ずいているって感だ。個人的にN.W.Aの中で一番好きだ。

■お勧め曲

  • 1.Straight Outta Compton
  • 2.Fuck The Polic
  • 3.Gangsta Gangsta
  • 4.If It Ain’t Ruff
  • 8.Express Yourself
  • 13. Something 2 Dance 2

アイス・キューブ脱退

ギャングスタ・ラップで成功を成し遂げたN.W.Aの、このメンバーでの生命は長くはなく、ファンにとっては悲しいことに、分裂していくこととなる。

1989年に、メイン・ラッパーのアイス・キューブが脱退する。その原因は、イージー・Eと、彼のマネージャーであるジェリー・へラーだ。

ジェリー・へラーは、元々は音楽業界人であり、数々のアーティストを売り込んだ実績のある人物である(エルトン・ジョン等)。

ビジネスマンの彼は、イージー・Eとグルになり、N.W.Aの売り上げを自分の懐に収めだした。とんでもないことである。

それを一番早く気付いたのがアイス・キューブだった。

若くして大金をつかんでいたアイス・キューブだが、売り上げに対する見返りが少ない為か、脱退を決意する。

アイス・キューブ、ソロ活動

その後、アイス・キューブはニューヨークに移り、パブリック・エネミーのボム・スクワットと組んだ。

そして、1990年に、ソロ・アルバム”AmeriKKKas Most Wanted”をリリースし、ソロでも十分通用することを知らしめた。

後には映画にも出演し、今ではハリウッド・スターの演技力を持つ。自分で脚本を担当した映画”Friday”がある。

AmeriKKKa’s Most Wanted / Ice Cube

東のラッパーが西と手を組んだ歴史的なアルバム。アイス・キューブがソロでも通用することが納得できる。

お勧め曲は、2曲目の”The Nigga Ya Love To Hate”。

メインラッパーのアイス・キューブを失ったN.W.Aは、すたれることなく逆に向上して行く。

ドクター・ドレが作る曲はパワーアップし、5曲しか入っていないサード・アルバムは、アイス・キューブが所属していたころのアルバム”Straight Outta Compton”よりも多く売り上げを記録する。

100 Miles And Runnin
N.W.Aの4枚目のアルバム。このアルバムは、ライムが悪すぎる為にイギリスで発売禁止となった。
Niggaz4life / N.W.A

アルバム名を反対から読むと”Niggaz 4 Life”となる、シャレた命名だ。

ポップチャートで初登場2位になり。プラチナ・セールスを記録した。

ドクター・ドレの脱退

4枚目のアルバムを成功へと導き、N.W.Aは頂点を極めたと思われたが、ここで、またもや問題が勃発する。

原因は、またもやジェリー・へラーとイージー・Eが起こした金銭トラブルだ。これにより、1992年に、NWAの中心的存在のドクター・ドレが脱退する。

マリオン・シュグ・ナイトが脅迫まがい・・・

その後、ドクター・ドレは友達であるD.O.C(ラッパー)を通じてマリオン・シュグ・ナイトと知り合った。

シュグ・ナイトは元フットボールの経験があり、身長は約185cm、体重は約150kgの巨体の持ち主だ。

ドレは、そんな彼に、ルースレス・レコードとの契約の解約を頼んだ。シュグ・ナイトがとった交渉の方法は、鉄パイプや金属バットをもった集団を連れてイージー・Eと交渉したらしい。約160cmのイージー・Eが勝てるはずがない。

手を出したわけではないらしいが、脅迫をするような形でドクター・ドレとの契約は解約となった。

そして、ドクター・ドレとマリオン・シュグ・ナイトとで新しく設立されたレーベルが、2PACで有名なデス・ロウ・レコードだ。

ドクター・ドレを失ったNWAは解散せざるおえなかった。

D.O.C

D.O.CはN.W.Aにとって、ライムを提供するなど重要な役割を果たしていた。

1989年に下記アルバムをリリースした後、不運にも交通事故に合った。
一命は助かったものの、ラッパーとしての生命である声帯が使いものにならなくなってしまった。

友人であるマリオン・シュグ・ナイトがお見舞いに出向いたとき、
D.O.Cが十分な報酬をもらってなかったことに気づいた。

そして、おまけに、ドクター・ドレの金銭トラブルの話も入り、
イージーEへの脅迫へとつながったのだ。

No One Can Do It Better / D.O.C

ドクター・ドレが全面プロデュースしているアルバムの1枚。ドレ・ファンは必聴!アイス・キューブ、MCレン、イージーEも参加しており、実はすごいアルバムだ。知る人ぞ知る。

■お勧め曲

  • 4. Comm. Blues
    ドクター・ドレの彼女Michel’lがブルーズを熱唱している。
  • 10. Comm. 2

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2パック(2PAC) ~東西抗争が勃発~

90年代中頃に、 “デス・ロウ・レコード” の最高責任者であるマリオン・シュグ・ナイトが、2PACとの契約を果たし、ギャングスタ・ラップは行くところまで行ってしまった。

それは、デス・ロウが東西抗争を引き起こし、2人の有能なラッパーをこの世から失ったことだ・・・