スリック・リックは、物語を作り上げてラップする “ストーリーテリング”の先駆者であり、
ヒップホップ界に新たなスタイルをもたらした人物だ。
ストーリーテリングとは、それは、物語を作り上げてラップを刻むスキルである。
後に、スヌープ・ドッグやノートリアスBIGに、影響を与えているほどのスキルである。
それほどの実力を備えてデビューしたのだが、
ファースト・アルバムのリリース後、殺人未遂事件により投獄されてしまう、悲劇のラッパーだ。
スリック・リック(Slick Rick)の少年時代
スリック・リックは、イギリスのロンドン生まれであり、1976年に、両親とともにサウス・ブロンクスに移民した。
彼のトレードマークである右目のアイパッチだが、これは、ただのカッコツケではなく、幼いころに事故で視力が失われたのである。
高校は音学の学校に通い、友人であるデイナ・デインと意気投合した。
ザ・カンゴール・クルーというグループを発足し、MCリッキー・Dとして活動をスタートする。
だが、残念なことに、レコードをリリースすることなく解散した。
そして1984年ごろ、ラップ・コンテストでダグ・E・フレッシュと出会った。
彼らは意気投合し、クラブでパフォーマンスを繰り広げる。
だが、このグループは、結局1枚のレコードしかリリースせずに、88年に解散してしまう。
いまだに、その理由は定かではない。
名曲”La-Di-Da-Di”
だが、この1枚のレコードが今では伝説の曲となっている。
A面に”The Show”、B面には”La-Di-Da-Di”を刻んでいる。有名なのは後者B面のほうだ。
我が国の偉大なる歌手、坂本 九の “上を向いて歩こう” をモチーフにしており、トリプル・ヒューマン・ビートボックスがバリバリの曲だ。(っていうか、坂本九がすごすぎる!!)
スヌープ・ドッグがカバー
ご存知のとおり、ギャングスタ・ラップのスヌープ・ドゥギー・ドッグは、スリック・リックの影響をかなり受けている。
語り口調のラップの刻み方は、スリック・リックをリスペクトしている。93年には、”La-Di-Da-Di”をスヌープが”Lodi Dodi”としてカバーしている。
デフ・ジャム・レコードと契約
1986年、MCリッキー・Dの実力は認められ、当時、Run・DMCやLL・Cool・Jが所属していた、デフ・ジャム・レコードと契約を交わした。
だが、契約を交わしたものの、プロダクションに関する双方の意見が相違した為、アルバムのリリースまでに時間がかかった。
そして、やっとのことで、1989年にファースト・アルバムをリリースする。
- Great Adventures of Slick Rick / Slick Rick
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89年といえば、タフなサウンドが流行だったが、スリック・リックは至ってシンプルなサウンドで、オールドスクールの精神を受け継いでいる。
このアルバムは100万枚の売り上げを記録した。彼は物語を作り上げ、それをラップするという、ストーリーテリングを先駆者だ。なので、日本語訳がついている国内版がおススメだ。
■おすすめ曲
- 3.Children’s Story
ストーリーテリングの代表曲。ひったくりで金儲けしている少年を、警官が追い回すという、おもしろおかしい内容だ。 - 7.Teenage Love
- 8.Mona Lisa
私は昔、クラブでよくかけていた。モナ・リサという女の子の話であって、最後に彼女が歌うメロディが、何ともいえない気持ちになる。
- 3.Children’s Story
悲劇の始まり
ファースト・アルバムが成功を収めて、大掛かりなデフ・ジャムのツアーに参加することとなった。
マネージャーでもあった母親がスリック・リックを心配し、彼の義兄弟であるマーク・プラマーをボディーガードに雇った。マークは元々、その道(悪い道)の出身である。
スリックリックの生活は、かなりゴージャスだった。写真やビデオのとおり、アクセサリーの数がすごく多い。
指にはゴールドの指輪がずらり、口を開けば金歯だらけ。首にはゴールド・チェーンを何本もぶら下げている。(約6~7.5万ドル総額だそうだ)
もちろん、車はベンツやリムジンを乗り回している。
マークは、そんな姿に嫉妬した。そして、その嫉妬は悪い方向へと進んでいく・・・。
マークを解雇
マークはボディーガードとはいえ、仕事は楽であり、週給500ドルももらっていた。
スリック・リックは、ツアーの収入が少ないことを理由に、経費削減のためマークを解雇した。
謝礼として、中古のバンと3000ドルを支払ったのだが、マークは納得しなかった。値上げを要求し、さらに脅迫するまでになる。そして、次第にエスカレートしていった。
90年4月、スリック・リックが友人2人とブロンクスのクラブに出かけた際、武装した男たちに、20発以上の銃弾を車体に受けた(幸い怪我は無かった)。そしてマークは、スリック・リックと母親を殺すと言いだした。
ここまできてしまい、スリック・リックはやむを得ず、マークを殺すことを決意する。
発砲
同年7月、スリック・リックは、妊娠中の彼女を車に乗せたまま、ブロンクスの車道でマークに発砲した。
マークは負傷し、他人にも傷を負わせてしまう。
スリック・リックは警察に追われ、車で逃走した。しかし、カーチェイスの末、木に激突して車は止まった。
彼女はかすり傷を負い、スリック・リックは片足を骨折した。そのとき、車のトランクから6丁の拳銃が押収された。
その後、音楽評論家のビル・アドラーが、スリック・リック釈放運動を開始し、何千人ものファンがそれに応じた。
そして、ラッセル・シモンズが保釈金を800ドル支払い、一時は出所した。6週間で約21曲を録音し、5本のビデオを撮影した。
しかし、91年3月、第2級殺人未遂及び他3件の容疑で有罪を言い渡され、3年~10年の判決を下された。
そのときの録音した曲の中から、11曲を選び、セカンドアルバム、”Ruler’s Back” はりリースされた。
- Behind Bars / Slick Rick
長い獄中の生活を終え、96年に出所した。そして、99年に念願の4作目をリリースした。
- Art of Storytelling Slick Rick
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23曲目に”La-Di-Da-Di”と、24曲目に”The Show”の貴重なライブバージョンが収録されている。
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