クイーンズで、カーディス・ブロウやRUN・DMCが成功を収めているなか、ヒップホップ誕生の地「ブロンクス」から、ブギー・ダウン・プロダクションズ(BDP)は登場した。

彼らのRAPは、グランド・マスター・フラッシュの”The massege”を受け継いでいるかのようにメッセージ性が強く、RAPに、政治や現代思想などを、荒いゲットーのスラングで刻み込んだ。

彼らの登場で、ヒップホップは新たに革命を起こしたと言っても過言ではない。

また、80年代に後半に、集団での強烈なRAPバトルを歴史に残している。

この章では、現在、ヒップホップ界の大御所の一人である、KRS-ONEを中心にご紹介させていただきたい。

KRS-ONEの名前の由来

BDPの中心的存在であるKRS-ONEの本名はローレンス・ブラウン。あだ名はクリスと呼ばれていた。

KRSーONE(ケアレス・ワン)の名前の由来は、クリス=ナンバー・ワンという意味だ。常にNo.1ってことが、さすがヒップホップを感じる!

KRS-ONEの恵まれない少年時代

KRS-ONEは、まだ幼いころに母親の再婚相手から虐待を受けていた。

13歳の頃から母親と対立するようになり、学校へ行かなくなり、そして16歳で家出をしてストリートで暮らすようになる。
いわゆる公園などに寝泊りするホームレスである。

16歳でホームレスなんて、日本では考えられない。ゲットーの中のゲットーだ!

心を入れ替えたのか、17歳で施設に入り高校卒業の資格を取る。

その後は進学はせずに、ファブ5フレディ(映画WILD STYLE)も所属していたユナイテッド・アーツというグラフティー・クルーに加わる。

このクルーはギャング “ブラック・スペーズ” から生まれたクルーであり、ブロンクスのギャングともつながりがあった。

そこでKRS-ONEはマリファナを運ぶ最中に捕まり服役することとなった。

出所後、20歳になったKRS-ONEは、ホームレス向けの更正施設でカウンセラーとして働いていたスコット・ラ・ロックと運命的な出会いをする。

スコット・ラ・ロックは週末にDJを務めており、共に活動をするようになる。そしてBDPは結成された。

BDP VS ジュース・クルーの喧嘩

BDPは、Marley Marl(マーリー・マール)率いる Juice Crew (ジュース・クルー)と激しくディスりあっている。

この戦いは今日では「ブリッジ・バトル」と呼ばれ、HIPHOPの歴史に刻まれている。
ここまで公になった喧嘩は、ヒップホップで初めてではなかろうか。

ジュース・クルーとは、クイーンズ出身のプロデューサーであるマーリー・マールが、仲間を集めて結成したクルーだ。

メンバーで有名なのはロクサーヌ・シャンテ、MCシャン、面白おかしいビズ・マーキー、伊達男のビッグ・ダディ・ケインなどなど。
このなかで「ブリッジ・バトル」の火種をおこしたのはMC シャンである。

マーリー・マールとMC シャンの出会いは面白おかしく運命的である。

MC シャンは、マーリー・マールが設立したレーベル “コールド・チリン・レコード” のオーナーの車を盗もうとして捕まった。

オーナーが車へ載せ、警察へ連れて行っている間にMC シャンはRAPを披露。
オーナーは、そのRAPのスキルを買って雇ったのだった。

ここからがバトルの始まりである。悪さボーズのMC シャンが 、クイーンズ・ブリッジのHIPHOPを語った曲 “The Bridge” をリリースした。

サウス・ブロンクスのBDPは、ブロンクスのHIPHOPに対するディスだと思い、”South Bronx(サウス・ブロンクス)”をアンサーソングとして対抗する。一般的には BDPが勘違いしたということになっている。

MCシャンは黙っちゃいない。これに対して “Kill That Noise”で対抗した。

これに対して、BDPは “The Bridge Is Over” でアンサーした。

ダウン・バイ・ロウ / MC Shan

MC Shanが、BDPをディスった曲が入っている。

ラジオ番組にまで影響

この紛争はラジオ番組にまで影響した。

当時、B・BOY達は2つのラジオヒップホップ番組をチェックしていた。ブロンクスのWBLS(ブラックミュージック専門局)とクイーンズのKISS-FMだ。

ブロンクスのラジオDJであるレッド・アラーとはジュース・クルーの曲を一切禁止した。もちろん、クイーンズのラジオDJであるミスター・マジックはBDPの曲を一切禁止した。

Criminal Minded / Boogie Down Productions

1987年にB・BOYレコードから、アルバム1枚限りの契約でのリリースであり、2枚目からはジャイブ・レコードからリリースしていく。

悲しいことに、スコット・ラ・ロックが参加したアルバムは、この1枚だけとなる・・・。

悲劇、スコット・ラ・ロックの死

BDPの仲間に Dナイス という15歳の少年がいた。彼はDJとして共に活動していた。

ある日、Dナイスは、彼女の元彼氏とトラブルになった。
元彼氏はブロンクスの薬の売人であり、「Dナイスに暴行を加える」と脅してきたのだ。

BDPのメンバーは争いを止めようと、数人で売人の地元へ向かった。しかし、売人と仲間達はBDPが来るのを察知しており構えていた。

BDPを載せたジープが売人の地元に入ったとき、銃声が鳴り響いき、ジープの中で座っていたスコット・ラ・ロックは頭と首に銃弾を受けた。

1987年8月25日、スコット・ラ・ロックは銃弾に倒れ、この世を去った。この事件の殺人犯として検挙された人は、いないらしい。

By All Means Necessary / Boogie Down Productions

スコット・ラ・ロックがこの世を去った後に発表されたアルバムなだけに、政治的な過激さを増したリリックだ。

ジャケットは有名なマルコムXのパロディらしく、当時、かなりの話題だったそうだ。

このアルバムは、ゴールド・ディスクに達した。

スコット・ラ・ロックの他界後、KRS-ONEは自らを “ザ・ティーチャー”と称し、ストップ・ザ・バイオレンス運動(暴力廃絶運動)の発起人となり、40都市の大学を回る講義ツアーを行った。

また、89年にオール・スターによるシングル「Self Dest-ruction」(チャックD、クール・モーディー、MCライト、Heavy Dなどなど参加)し、ナショナル・アーバン・リーグのために約40万ドルの寄付金を集めた。

また、「いかに自己破滅から立ち直るか」という本も出版した。

BDPは1993年に活動を停止した。その後、KRS-ONEはあらためてソロで活動をする。

私がKRS ONEで最も好きな曲

私がKRS ONEで最も好きな曲、それは、「Step into a World」だ。

私がクラブに通うようになったのは1997年頃からだが、この曲がいつも流れていた。DJ達は、よく2枚使いをしてたので、私も真似をしていた。

この曲は、定番中の定番なので、是非、おさえておきたい。

最後に・・・。

右の写真は、レコードのジャケットだが、KRS-ONEが怖すぎる・・・。このパンチをくらえばぶっ倒れそうだ!

“USA Today” 紙で、彼はこう語っているらしい。

「俺は未だにゲットーの黒人の若者さ。俺は190cmで118kgある。俺に向かってくる奴がいたら、俺はそいつを踏みつぶしてやるぜ」

右の写真をみれば、向かってくる奴を踏みつぶせるに違いない。

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