1990年代半ば、ヒップホップ界は、東のデス・ロウレ・コードと、西のバッド・ボーイ・エンターテイメントという二つのレーベルとの間に亀裂が入り、対立していた。
これは東西抗争と呼ばれ、結果的には、二人の偉大なラッパー「2PAC」と「ノートリアス・B.I.G.」の命を失うという形で、終結した。
この事件は、世間からは東と西での抗争と呼ばれているが、両者が抗争した訳ではなく、主にデス・ロウが仕掛けて、バッド・ボーイは特に対抗しなかったようだ。
このページでは、ノートリアス・B.I.G.を中心に東西抗争を見ていくとしよう。
生い立ち
ノトーリアス・B.I.G.(The Notorious B.I.G.)の本名は、クリストファー・ジョージ・レイトア・ウォレス(Christopher George Latore Wallace)と言う。呼び名は色々とあって、「ビギー」や「ビギー・スモールズ」、ビッグ等とも呼ばれている。
ちなみに、「B.I.G.」の読み方は、「ビー・アイ・ジー」と読むのが正しいとのことだが、「ビッグ」と呼ばれることが多い。意味としては、「Business Instead of Games」の略で、「ゲームの代わりにビジネス」だそうだ。
生まれは、ニューヨークのブルックリン。1972年5月21日に誕生し、まだ2歳の時に父親は蒸発し、その後は母親に女手一つで育てられた。ラッパーに多い不幸な話である。
彼が少年時代を過ごした地域は、クラックブームという時代背景もあり、薬物や犯罪が多い地域だった。そんな環境で育った彼は、薬物の売人として働くかたわら、ラップのスキルを磨いていった。
アップタウンと契約し、活動開始。
そんな中、ビッグ・ダディ・ケインのビートでラップした彼のデモテープが、ビッグ・ダディ・ケインのDJの目に止まり、ヒップホップの雑誌「The Source」に掲載された。
「未契約新人」として紹介された彼は、当時アップタウン・レコード所属で、世間で名が知れていたパフ・ダディに見出され、アップタウン・レコードと契約することとなった。
そして1992年、クイーン・オブ・ヒップホップ・ソウルとしてヒップホップ界に衝撃を与えたメアリー・J・ブライジの「Real Love」のリミックスに参加し、ここから本格的なレコーディングをスタートさせる。
そして遂に、彼のデビューシングル「Party And Bullshit」をリリースした。この曲は、ヒップホップ・アーティストが数多く出演した映画『Who’s The Man』(1993年)のサウンドトラックに収められた。
パフダディがバッドボーイ設立
その後、当時成功を収めつつあったパフ・ダディが、アップタウン・レコードからから解雇され、バッド・ボーイというレーベルを立ち上げた。
もともと、パフ・ダディから見出されて、アップタウンと契約したノートリアス・B.I.G.は、パフ・ダディに付いて行き、バッドボーイと契約した。
1994年9月1日、ノートリアス・BIGのデビュー作「Ready To Die」のアルバムをリリースし、これが爆発的にヒットしたのである。
当時、ドクター・ドレがGファンクを確立したアルバム「The Chronic」により、西海岸のヒップホップが盛り上がりを見せていたが、ビギーの「Ready To Die」と負けておらず、東海岸も盛り上がりを見えることになった。
- Ready To Die / The Notorious B.I.G.
-
バッドボーイからリリースされたノートリアス・B.I.G.のデビューアルバム。ヒップホップにおいて、このアルバムは重要すぎるアルバムだ。
パフ・ダディがプロデュースし、DJプレミアや、イージー・モー・ビー、ロード・フィネスなどもアルバム製作に関わっている。
この頃までは、ノートリアス・B.I.G.と2PACは交流があったのだが、その後、2PACが銃撃されたことによって、東西抗争が勃発してしまう。
2PAC銃撃事件
1994年11月30日に銃撃事件が起こった。
パフダディとノートリアス・B.I.G.らは、ニューヨーク州マンハンタンのタイムズスクエアにあるクアッド・レコーディング・スタジオの2階で、レコーディングを行っていた。
この日、2PACも、アップタウン・レコード所属のアーティスト「リトルショーン」のリミックスに参加するため、スタジオに来た。しかし、スタジオのロビーで武装した強盗に襲われ、銃弾5発を受けたのだ。さらには、400万円相当のジュエリーも奪われた。
ただ、幸いなことに、2PACの命は助かった。
彼はこの時期、以前起こした性的暴行の容疑で裁判中だった。
銃撃事件から2日後には、母親が押す車椅子に乗って、痛々しい姿で出廷することができた。しかし、裁判では有罪判決を受け、投獄することとなった。
投獄中に、銃撃時事件に関して思い返し、パフ・ダディやノートリアス・B.I.G.らが関与していたと思い込むようになり、VIVE誌のインタビューで、彼らを非難した。
デス・ロウ・レコードのマリオン・シュグ・ナイトが動き出す。
ここで、デス・ロウ・レコードの責任者「マリオン・シュグ・ナイト」が動き出す。
そもそも、シュグナイトは、バッドボーイのことをよく思っていなかった。以前、アトランタのパーティーで仲間が一人殺されたのだが、これはパフ・ダディのせいだと告発していたのだ。
シュグナイトは、2PACの保釈金を支払って解放させ、デスロウレコードと契約を結んだ。そして、バッドボーイを徹底的に攻撃開始した。
だが、2PACの挑発に対して、バッドボーイは一切ノーコメントを貫いた。世間では東西抗争と言われているが、デスロウが一方的に仕掛け、バッドボーイ側はそれに耐えたのだ。
2PACとノートリアス・B.I.G.が銃撃され、命を落とす。
この東西抗争と呼ばれるものは、結果的に悲しい結末を迎えることとなった。
1996年9月6日、2PACがラスベガスで行われたマイクタイソンの試合観戦後に、何者かに銃撃され、命を落とした。
そして翌年の1997年1月、ノートリアス・B.I.G.は、LAで行われた「Soul Train Award(ブラック・ミュージックの授賞式」に出席し、その後のパーティーにも出席した。
パーティーが終わり、サバーバンに乗って移動している最中に、交差点で何者かに銃撃された。
その後、シーダーズ・シナイ病院へと送られたが、病院にたどり着く前に、死亡が確認された。まだ24歳の若さだった。
彼が、既に録音を済ませたセカンド・アルバムをリリーする直前の出来事だった。そして、ノートリアス・B.I.G.の死後から3週間後に、セカンドアルバムはリリースされた。
- Life After Death / The Notorious B.I.G.
-
なんと、1000万枚のセールスを記録したアルバムだ。
この東西抗争と呼ばれるものは、結果的に、ヒップホップ界に影響を与えていた有能な二人のラッパーを失うことによって、治まることとなった。
その後、パフ・ダディは、ノートリアス・B.I.G.の追悼曲を発表した。
- No Way Out / Puff Daddy & the family
-
パフ・ダディの初めてのソロ・アルバムで、爆発的なセールスを記録。
ノートリアス・B.I.G.の追悼曲「 I’ll Be Missing You (feat. Faith Evans & 112)」が入っている。The Police の Every Breath You Takeを大胆にサンプリングしたこの曲は、一般人からも大いに受け入れられた。
当時、クラブに行くと、必ずと言っていいほど、「 I’ll Be Missing You 」はかかっていたのを思い出す。90年代を代表する名曲中の名曲だ。